変わったもの、変わらぬもの ―― ふたたび南相馬へ ◎7月23日~25日◎
23日~25日の三日間に開催された「相馬野馬追祭」は震災の影響で例年よりも規模の縮小を余儀なくされたものの会場は多くの見物客や報道陣で賑わい、
人々の復興への意志の高まりを示す象徴的な催しとして報道されていた。
確かに、4月のときと比べても営業を再開した店は多く、人も増え街には活気が戻りつつある。
しかし、未だ避難所生活を続けている人や、癒えない震災の爪跡に苛まれる人が大勢いることもまた事実だ。
大阪・西成のドヤ街と大震災 ◎5月23日◎
先日、日雇い労働者の街である大阪市西成区のあいりん地区(釜ヶ崎)で、宮城県の仕事に応募した労働者が実際には福島第一原発の敷地内で就労したことが明らかになり、問題となった。
5月23日、私はこの労働者が仕事の紹介を受けた西成労働福祉センターのある、あいりん労働公共職業安定所を訪れた。
茨城・取手市の避難所ではいま ◎5月7日◎
東日本大震災の発生から二ヶ月が経つ。行き過ぎとさえ言われた自粛ムードも去り、各所での節電を除けば東京の街並みは賑わいを取り戻しつつあるようにみえる。しかし、今この瞬間も避難生活を続けている人々は大勢おり、それは必ずしも被災地に限ったことではない。
大分・大分市内の様子 ◎4月26日◎
先日、わたくし故郷の大分に行って参りました。これまで当ブログでは、奈良、京都や千葉、そして東北の様子をお伝えして参りましたが、九州に関してはノータッチだったので、九州(というか大分)は今般の震災をどう受け止めているか、の雰囲気をお伝えしてみたいなと。
福島・いわき市小名浜ソープ街探訪 ◎4月23日◎
福島県いわき市小名浜はその名の示す通り海沿いの町だ。かつての主な産業は漁業であったが、最近では近隣の工場へ物資を降ろす為の工業港としての役割も果たしている。
しかしながら先の震災、津波の影響で、4月23日時点においては港としての機能はストップしているようであった。
福島・Jヴィレッジ――原発作業の最前線は ◎4月23日◎
Jヴィレッジは日本初のサッカーのナショナルトレーニングセンターだが、東電が一部出資していたこともあって今回の原発事故対応の前線基地となっている。
浪江町から楢葉町へは、本来ならば南東方向へ進めば1時間足らずで到着できるのだが、ところどころ原発20キロ圏内につき警戒区域として立ち入りが禁止されていたため迂回を余儀なくされ、二時間ほどかかってしまった。
宮城・石巻市にて、あるボランティアの手記 ◎4月中旬◎
編集長の大学学部時代の友人、Sさんが宮城県石巻市へボランティア活動のために赴いた際の手記を、ご本人のご好意により、許可をいただいた上で転載させていただきました。
「取材」という形で今回の震災に関わる他の記事を書いている我々編集部とは違う、ボランティア活動参加者の視点や心中、そして被災地の現状を知っていただければ幸いです。なお、写真はSさんが当地にて撮影したものです。
福島・福島第一原発20キロ圏内の映像 ◎4月9日◎
4月7日の福島第一原発20キロ圏内を取材した際の動画をyoutubeにアップいたしました。 撮影地は主に南相馬市の原町区、小高区です。どうぞご覧ください。
福島・南相馬のいま ◎4月7日◎
仙台方面から国道6号線を南下すると立ち入り禁止の看板が立てられていた。原発から20キロの境界線だ。そこで出会ったフリージャーナリスト西牟田靖氏の持つ放射能測定機は毎時0.61マイクロシーベルトを示す。
福島・福島第一原発半径20km圏内リポート ◎4月7日◎
4月8日現在、福島県南相馬市は福島第一原発から半径20km圏内の避難指示区域、半径20~30km圏内の屋内退避区域、半径30km圏外の避難指示がない区域の三つに分断されている。
半径20km圏の境界には各道路に警察の検問所が設けられ、特別な理由がない限り立ち入り禁止となっている。
4月7日、私は編集部の斉藤光平と共に、南相馬市在住のTさん(50代)の自動車に同乗させていただき、この半径20km圏内へ足を踏み入れた。
埼玉・さいたまスーパーアリーナの様子 ◎3月30日◎
3月30日、東日本大震災の避難所として解放されたさいたまスーパーアリーナを、編集部の斉藤と本誌読者のKさんと共に訪れた。本施設の避難所としての解放期限は明日に迫り、すでに次の避難所へ移動を始めた避難者も多い。
千葉・浦安市液状化現象の被害レポートと、
これからの日本を生きるみなさんに主張したいこと。 ◎3月24日◎
先日から、大きな余震が続いていますね。8日には最大の余震がありました。都内の自宅もけっこう揺れました。余震といっても、M7.4というのはそれだけで立派な大地震の規模です。まだ震災は終わっていません。
広島・平和記念資料館にて ◎3月22日◎
広島市街の様子は平穏で、就職活動に勤しむ学生も多く見かけた。しかし、市街地の一部には米と電池の不足が及んでいた。関東の親戚や友人に送る人が多いためだという。
京都・観光都市の今後は ◎3月17日◎
3月17日、京都へ行った。ところどころで募金活動を行っている集団を見かけるのを除けば、街を行き交う人々の様子はいつもどおりだ。
大阪・西成にて ◎3月16日◎
梅田で『ドライ』二号にて「筆名と本名のあいだ」を寄稿していただいた八田修一さんに会いに大阪の梅田へ向かった。新今宮駅で下車し、乗り換え時間の30分程度の短い時間ながら西成の様子をみてきた。
奈良・地元高校生が募金活動 ◎3月16日◎
前々から調査旅行の予定があり、京都を経由して奈良へ来ている。いま、近鉄奈良駅や付近の商店街では奈良県の地元高校生たちが募金活動を行っている。 方々で、「東日本大震災の被災地のみなさんに、募金をお願いします」という声が飛び交っている。
東京・深夜の渋谷センター街 ◎3月15日◎
午前二時ごろ、渋谷へやって来た。いつもと比べると、人通りが少ない。節電のためネオンは消しつつも、営業している飲食店や居酒屋は多い。 とあるカラオケ店社員の男性(25才)によると、地震当日は多くの「帰宅難民」が宿泊所代わりに入店したが、その後はさっぱり。今日はまだ10組だけだという。
東京・深夜の新宿歌舞伎町 ◎3月15日◎
深夜午前1時過ぎ、新宿歌舞伎町界隈へ到着。人通りはまばらだが、靖国通りにはスーツ姿のキャッチの群れがいくつか出来ていた。 パチンコ店やゲームセンターが営業時間を早めたり、臨時休業をしたりしているのと対照的に、風俗の無料案内所やキャバクラ、ホストクラブのネオンは明るい所が多い。
インド・その日、遠い国から日本を眺めて ◎3月11日◎
僕は、あの震災の日とその後の2週間を――混乱を極める日本を、日本人でありながら、外から眺める立場にあった。東日本大震災を多角的な視点から眺めるこのサイトをより充実させるために、あの時の奇妙な体験と僕の感じた印象をここに記したい。
あの激動の半月を体験しなかった僕の言は、地震で苦労をされた方からすると不快に感じる部分もあるかもしれないが、敢えて、自分が感じたことを正直に書こうと思う。これもまた、ひとつの現実なのだ。