変わったもの、変わらぬもの ―― ふたたび南相馬へ ◎7月23日~25日◎


3ヶ月後の光景

7月23日~25日に福島県南相馬市を訪れた。前回の取材から3ヶ月以上が経過したが、津波被害の現場を訪れると一目して明らかな違いが二つあった。

第一に、瓦礫の処理がだいぶ進んだ。以前は散乱状態だった瓦礫も集積が進み、海岸沿いには瓦礫置場が設けられている。 「金属くず」「コンクリートくず」「木質系」「土砂混じり」といった分別のもとに瓦礫がうず高く積み上げられ、優に4メートルを越えるものもある。 それぞれの山をよく見れば、布団やぬいぐるみといった生活用品も多い。我々が「瓦礫」と呼ぼうとも、そこにはこの地で暮らしていた人々の生活の記憶や思い出が詰まっているのである。

多くの犠牲者を出した老人保健施設「ヨッシーランド」の瓦礫除去もほぼ終わり、今は建物の中へ入ることができるようになっている。正面玄関を入ってすぐのホールには献花台が設けられ、いくつも花束が供えられていた。

第二に、津波の現場に緑が増えたこと。これは、雑草が生えたためである。自然の生命力云々よりも、人の手が入らないと土地はこうまで荒れてしまうのかと驚かされる。 線路や折れた電柱、いまだ放置されたままの生活用品が無造作に生い茂る雑草の中に埋もれゆく光景は不気味なものだった。

津波被害の見物人が増えたという印象もある。我々も例外でないかもしれないが、一眼レフを構える人を多く見かけ、中には横浜ナンバーの車から降り立つカップルの姿もあった。 にわかには信じられないことだが、最近は観光バスに乗って被災地の見学ツアーへやってくる一行もあるという。「信じられないことだ。自分たちの気持ちを考えてほしい」という現地の人の声を聞いた。


「何も変わっていない」

23日~25日の三日間に開催された「相馬野馬追祭」は震災の影響で例年よりも規模の縮小を余儀なくされたものの会場は多くの見物客や報道陣で賑わい、 人々の復興への意志の高まりを示す象徴的な催しとして報道されていた。(野馬追の写真については準備が整い次第逐次公開していく予定。)

確かに、4月のときと比べても営業を再開した店は多く、人も増え街には活気が戻りつつある。外で野球をして遊ぶ中学生たちと出会ったし、夜は酒場に若者が集ってカラオケで盛り上がっている。 あるいは、先の通り瓦礫の除去も進みつつある。しかし、一見すると変わったかのようにみえるが、未だ避難所生活を続けている人や、癒えない震災の爪跡に苛まれる人が大勢いることもまた事実だ。

話をうかがった居酒屋の大将は「震災から4ヶ月経ったが、何も変わっちゃいない」と言う。下着は未だにすべてもらったものを使っているそうだ。店で出せるメニューも限定されており、何より悔しいのは一番得意な寿司を出せないことだ。 この方は津波で奥さんを亡くされ、ご遺体を見つけるまでに400人以上の方のご遺体を目にした。その数多くの遺体が夢に出る。最近は、目が覚めているときでもそこかしこに見えるという。

これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)と断じるのはよいとして、こうした人たちへの支援は足りているのだろうか。心理学の専門家が被災地へ赴いているという話は耳にするが、心理学に任せきりにしていい問題でもない。 そもそも物資面での支援のほかに、いったい我々に何ができるのか考えなければならない時期に来ている。「遠くから来てくれる人がいる以上、店は続ける。負けるつもりはない。これがあるからやっていけるんだ」大将は形見のエプロンを抱きしめた。


飯舘村、浪江町はいま

次第に活気が戻りつつある南相馬市の近隣に、いまだ「復興」とほど遠い地域があることも看過できない。25日に南相馬市で行われた「上げ野馬神事」をみたあと、 4月の福島第一原発20キロ圏内取材でお世話になったTさん(仮名)にご協力いただき、飯舘村と浪江町を訪ねた。現在、飯舘村と浪江町は放射線量が年間積算20ミリシーベルトに達する「計画的避難区域」に指定され、 ほとんどの住民は避難している。飯舘村では避難せず村に残っている人もおり、一部営業をみとめられている会社もあるが、街は依然として無人状態である。

Tさん所持のミリオンテクノロジー社製ガイガーカウンターで測定したところ、自動車内でさえもっとも高いところが毎時7.8マイクロシーベルト。これは、飯舘村内のある山の頂上付近での値である。車内の測定値は外での値の約4割だそうなので、 外で測定した場合は約2.5倍となり、毎時19マイクロシーベルトを超えてしまう。浪江町の警戒区域(原発20キロ圏内)境界付近は車内で毎時4.4マイクロシーベルト。民家がある平地でも屋外で毎時10マイクロシーベルト前後の値が出ていた。

昨今肉牛からセシウムが検出され問題となっている畜産のみならず、この界隈の主な産業である農業や林業への打撃は甚大だ。田畑は生い茂る雑草で荒れ放題となり、放射線の問題以前に今年の収穫が可能かどうかもわからない。 林業についても高い放射線量が測定されているため、木を伐採しても出荷先がなかなか見つからない。 外皮を剥いで製材すれば木材として十分利用できるが、この外皮が放射能で汚染されているため、処理が問題となる。そもそも、山林が多い土地のために除染も容易ではない。

こうした現状をみると、ようやく活気が戻りつつある南相馬とは対照的に、飯舘村や浪江町は将来的に人が住み、子供を産んで育てていけるのかきわめて深刻な状態にある。飯舘村では村の自主パトロールに声を掛けられ、 来訪の目的や職業を詳しく聞かれた。こちらも質問すると、詳しいことは言えないがパトロールの最中に不審者を見かけることはしばしばあるという。 暮らすことは叶わずとも、せめて一時帰宅の制度充実や今後の土地管理策を提示するなど、政府はこうした地域の荒廃を防ぐべく一刻も早く対応すべきだろう。


福島の人は「寡黙」か?

ノンフィクション作家の佐野眞一氏は7月27日の『日本経済新聞』夕刊で次のように述べている。

「津波は人を冗舌にさせるのだろう。三陸では多くの人が経験を語りたがった。一方、福島ではみな口が重い。感情を吐露できない、封印されていると感じた。 この違いは津波は「見える」が、放射能は「見えない」という違いからくるのではないか。見えない恐怖は人を寡黙にさせるのだ。」

――しかし、果して本当にそうだろうか。佐野氏が「見える」「見えない」などという安易な二分法を用いて現地の人々を語ることにはいささか疑問がある。私は岩手を訪ねていないから何とも言えないが、少なくとも福島の人が寡黙でないことだけは確かだ。 南相馬では「おめぇに帰る家はあるか? 親はいるか? 金はあるか? こっちは全部ねえんだ」と感情をぶちまける人もいた。その怒りとも悲しみともつかない表情に返す言葉がなかった。一方で、この人は東電への不満を一切口にしない。 甥が今まさに、原発事故収拾の最前線で働いているのだ。彼は、自らの危険を顧みず命がけで身体を張っているこの甥を誇りとしている。このように、やり場のない気持ちの高ぶりを必死に押し殺して暮らしている方は南相馬に限らず、大勢いらっしゃることと思う。

佐野氏は「現地を見ずに、ものを言うのでは、ノンフィクション作家の資格がないし、激甚な被害で言葉を失った被災者の姿を伝えるのはノンフィクションしかないと感じた。」と言う。 しかし、たとえ現地へ足を運んでものを言ったからといって、それは事実を伝えているかもしれないが、決して現実すべてではない。本記事についても然りである。ノンフィクションやジャーナリズムの危うさはそこにある。 書かれたこと、報道されたことがすべてではない。私が危惧するのは、こうしたさも総括され尽くしたかのような震災の語られ方が、一縷の疑いもなく世間にまかり通ることである。


「境界線をみておいてほしい」

南相馬ではまたある人に「被害のあった地域、無事だった地域、というだけでなく、両者の境界線もよくみておいてほしい。人間の生は、それぐらい紙一重なんだ」とうかがった。 冒頭に記したヨッシーランドのすぐ目の前にはわずかばかりの土地の高低差で辛うじて津波の難を逃れた家があって、そこではいつも通りの暮らしが営まれている。 4月には見かけなかったが、今では瓦礫の合間を縫って走るランナーがいる。首都圏で暮らす我々にとってあまりに非日常的な津波被害の光景も、当地で暮らす人々にとってはもはや日常なのである。

福島市内、福島駅前で寿司屋を営むおばさんは、毎日店内の床をすべて水で洗い、検出される放射線量を少しでも低くしようと努力している。「私たちは当事者だけどね、もうセシウムは怖くないよ。怖くないから、みんなに福島きてほしいね」と笑顔で語った。

放射性物質や放射線が我々の身体にどれだけの影響を与えるかは今後何年か経ってみないとわからない。確実なことが何も言えない以上、自衛の措置を講ずるに越したことはない。 しかし、「セシウムだいすき」とさえ豪語していたこのおばさんの肝っ玉の太さには、頼もしさを感じる。何気ない「私たちは当事者だから」という謂いは、裏を返せば彼女にとって当事者と、そうでない人がいるという意識があるのか。

「がんばろう日本」という、あまり聞きなれない言葉をいたるところでみかけるようになってから四ヶ月。確かに、我々は「日本」以外に自分たちをくくる適切な言葉を知らない。 しかし、実際のところ被災した人とそうでない人の間に溝があることもまた事実だ。我々ひとりひとりは何に対して、どこまで当事者であろうとするのか、改めて問い直す必要がある。

今回話をうかがった方々からは、個々の事情は違えど、一様に「生活への強い意志」とでも呼ぶべきものを感じた。それは、決してきれいごとで済まされるものではない。 甚大な被害をこうむり、決して戻らないものを失い、それでもどうにかして生きていくのだという、のたうちまわりながら前進していくような烈しいものだった。彼らの気持ちを汲み、一方で事態を静観する視点も持ちながら、必要な支援を提供していかねばならない。

最後に、今回の取材で4月に引き続き全面的にご協力をいただき、お世話になったTさんをはじめ、多くの方々にここに記して感謝の意を表したい。 また、今回同行した写真家の新納翔氏が現地にて撮影した写真をweb上で公開しているので、是非こちらも参照されたい。


(文責:稲葉秀朗 | 写真:稲葉・上)


(追記)
南相馬市内で出会ったボランティア参加者の話によれば、ボランティアの人員はまだ足りず、福島以外にも多くの場所で支援が必要とされている。 さらに、物資を送ってもらったところで余るものもあれば、本当に必要なものは不足するということもあり、適材適所を徹底する余地は大いにあるのだそうだ。 特に、夏場は食料の保存が困難なので腐りやすいものはせっかく送ってもらっても、それを必要としている人に手渡らないことさえある。 ある程度物流が正常化して食料は現地でも調達できるようになっているので、むしろ現金による支援の方が有効である場合もあるという。ボランティア活動に興味がある方は編集部までご連絡下さい。


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