大分・大分市内の様子 ◎4月26日◎
どうも、編集の池田です。先日、わたくし故郷の大分に行って参りました。これまで当ブログでは、奈良、京都や千葉、そして東北の様子をお伝えして参りましたが、 九州に関してはノータッチだったので、九州(というか大分)は今般の震災をどう受け止めているか、の雰囲気をお伝えしてみたいなと。 今回わたくし二年ぶりの帰省でありまして、二年あればパルコも潰れる、というわけで、進行する過疎、増える空き地に嘆息が止まりません。
そんななか目を引いたのが、今も変わらない大分の老舗デパート、トキワ前での署名活動。ここは市街地の中心で、むかしから募金や署名活動のメッカなのでありますが、どうやら今回は反原発の署名の模様。 おお、果ては九州まで反原発はひろまっているのか、やはり事態は日本全体の関心事であるかもしれんの、と感慨に浸りつつよくみると、なにやら揉めているご様子。
警察「ちょっとちょっと、君たちなにやってんの、許可取ってんの!」
防護服「いや、ちょっ、なんすか、ブフォw怪しくないでござる、コポォw」
(想像)
こうなっては防護服もおまぬけにしかみえない。周囲も白々しい目を向けている。向こうに立っているメンバーはうつろな目をしている。よく考えたら何の団体なのかもよくわからない。 ポリスの手前、団体に接触することはためらわれましたが、宗教がらみか、あるいは政治団体か、いずれにしろまともではないという印象をあたえるものでした。
まあ、そんなもんです。大分での反原発の動きなんてのは。別に、反原発を唱えるのは自由です。もちろん原発に関しては放置でいいはずがない。
とはいえ、やり方ってモンがあるでしょう。やりゃあいいってもんじゃないでしょう。無許可でやって警察に怒られ不信感をかえば、 署名を集めて原発をとめるという(おそらく)彼らの本来の目的は達成されないわけです。まさに本末転倒。笑止千万。先日の渋谷での大規模デモもそうですが、あなたたちの目的は「デモをやること」なのですかと。
お祭り騒ぎがやりたいならそう言えばいい。
彼らの唱える「危ないから廃止しよう」は明らかに視野狭窄的極論であって、たとえばもし仮にこのデモによって「直接的に即座に」原発が止まったとするなら!困るのはデモ参加者を含めた国民全員であるといえばよいか(電車が止まれば彼らは渋谷から自宅に帰ることすらできない!) つまり、意識のもんだいとして、「即座には実現されない他人事」であるからこそ、彼らはデモに参加するのである。その構造。特に中高年が、顔をあわせれば原発の情報交換をしあうのは、それが「どうにもならない現実」だからそれについて多く語るのだ。
不安だから、語るのである。それはまったく責められることではない。しかしながら、デモや署名活動など、なにか行動を起こすというのであれば、さっきもいったけれども、やり方というものがある。 先のような意識の欺瞞の陰に隠れている限り、どんなに大規模なデモをやったところで世の中はよくならない。「世の中」を形成するのは、原発ではなく、デモ参加者を含めた我々一人一人なのだから。 そこから逃れられるのは、石油製品や人工物を一切使わず、人里離れた山奥や無人島で、完全自給自足を営む人間だけである。
それ以外は、すべて生きているだけで「当事者」(震災の、ではない)なのだ。それは人によっては残念なことなのかもしれないけれども。デモに参加せずとも、政治に興味がなくとも、人はそういう意味で「政治的」なのだ。無駄にギャーギャーいう必要はほんとはないのだ。 それはギャーギャー言いたいだけなのだ。むしろ声高に発言するという行為は、場合によっては最悪の政治行為であるということを、我々は歴史に学んでいるはずである。
だからするなということではないけれど、果たしてこの防護服の署名活動や、渋谷のデモは、なにが違うのだろうか。楽しそうなデモ参加者の様子を見ていて、そんなことを思いましたね。
さて、そのほかは大分は至って日常でした。募金箱はあちこちに置かれているものの、人々の話題に地震と原発は少なく、「東京はたいへんなの?」と方々できかれるくらい、彼らには実感がないのだろうと感じました。 実際まったく揺れてないし、節電もしてないし、原発からも遠く離れているし、過疎地域のため、高いネットリテラシーを持つ若者が希少で、人口の大半がテレビ新聞でしか情報を得ない中高年層であるため、 ぶっちゃけ人事ですよ。大分的には。でもなまじ実害があったばかりにやたらと騒ぎまくる東京に比べて、それが逆に気持ちよいし、そんなもんなんだよ、と思いますね。
なにが一つになろう日本だと。
てめえらには家も家族もいるだろうがと。
被災者の中にもクズはいる。困った人もエロいひともしょうもない人もいるでしょう、と、いうか、そう考えるのが、そのように想像を巡らすのが、まともだと思いますがね。 被災者を十把一絡げに「被災者」と捉えるのは、彼らを同じ「人間」と見なしていない視線ですよ。まあ一面には「情弱」ともとれるそうした地方のあり方がいいというのでもないですが。
うちのおやじは、震災当日、津波警報に加えて沿岸地域であったため避難勧告まで出されていたにもかかわらず、近くの大分川の様子を見に行って、「ぜんぜんなんもねえわ」とのんきに電話してきた。 いくなっつってんのに行くんですよ。大丈夫だろっつって避難しないんですよ。そういう人がたくさん亡くなったというのに。まあいい意味でも悪い意味でも田舎者はのんびりしています。
なかには、ネットや人脈を駆使してなんとか「知ろう」としている人もいます。地元の友人とスナックで飲み明かしましたが、各種関係者との豊富なつき合いや、 ずっしり詰まった人生経験を持つママさんというのは、やたら詳しい情報を知っていたり、東京でわめいている「知識人ども」に聞かせてやりたいようなまともな考えを聞かせてくれました。
さていろいろ言ってきましたが、結局地震や原発に関しては、パブリックな議論と、それぞれの立場から個人的な様々なコミットのありようしかないわけで、一つになろうとか、下手な思考停止にならないようにきをつけましょうね、ということでした。
(文責 : 池田尚史)